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2017年 九州ケズィックの恵み
アル・ウィッティングヒル師

バイブルリーディング③ 「神への全き献身への招き」
ローマ人への手紙1章1~15節,12章1~2節,16章25~27節

 神が、私たちをケズィックコンベンションに連れて来られた理由とは何でしょうか。ローマ16 章において、パウロは「わたしの福音」と記していますが、この唯一の福音があなたの福音となり、その素晴らしさが皆さんを通して国々に伝わるよう、主が願っておられるのです。
ローマ12 章1~2 節「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(口語訳)。この御言葉に到達することが、この集まりの答えです。
神は、神がこの福音についてどのようにお考えなのか、皆さんに理解してほしいのです。

 神はローマ書の中で福音の論理を一つ一つ進められ、明確にされていきます。そして、12章1~2 節に到達する。この箇所は聖書のエベレスト、言うなればモリヤの山なのです。神はアブラハムに、モリヤの山でイサクをささげよと言われました。しかし、神はいきなり12 章の内容から、アブラハムに求められたわけではありません。1 章から、神のロジック(論理)を進められたのです。
 ローマ書は、初めは暗いスタートです。1章は、人間の罪について。神を知らぬ異教徒や、罪のリストが記されています。2 章では、教会の人々も断罪されており、3 章では全世界が断罪されています。しかし、21 節では、救いが宣言されます。キリストの血潮を信じる信仰によって、赦され、義とされるのだと!

 4 章では、キリストの義について。信じる者に、義の衣が与えられるのです。5 章は、キリストを通しての神との平和について。信仰によって義とされ、義を着せられる。それは始まりです。そして、6~8 章に入っていきます。神に似たものとされるという、驚くべきミステリーについて記されていくのです。
 6 章には、「あなたは知らないのか」と、信仰者と罪の関係について語ります。あなたは、罪に対して死んだものである、と。罪が死んだのではない、あなたが罪に対して死んだのです。あなたは、キリストと共に十字架につけられたのです。そして7 章は、信仰者と律法について。信仰者が自分の力によって生きようとしていることが述べられています。「わたし」「わたしに」、とあります。わたしはどうしたらいいのでしょうかと、自分を意識しています。つまり、律法を通して「わたしは罪人だ」とわかるのですが、救われたなら感謝しますね。私は良いクリスチャンになります、主を愛します、と。しかしそれは自分を意識して頑張っている。クリスチャンライフを、自分の力で生きようとする。すると、律法が私のところに戻ってくる。どうしようもない聖徒であることを教える。従いたいのに、できない者であると。私は何とみじめなのか、と。
 しかし、8 章でその答えが記されるのです。他の書簡と比べて「霊」という言葉が多く使われており、クリスチャンにおける聖霊の働きについて、語っています。すなわち、神の姿に似せられていくのは、ただ神の力によるのだと。一度だけ「わたし」という言葉が使われていますが、それは、自分に対して死んだ、と言っているのです。では、どのように神は、私をきよくしてくださるのか? 6、7、8 章のそれぞれの最後の節を見ましょう。「主イエス・キリスト」によってとあります。神の姿に似せられるのは、ただ、イエス・キリストを通してなのです! 自分の力でやろうとすると、何もできない。それはとても痛いことです。しかし、もはや、私ではなく、キリストが私の内で生きている!そのことがわかるなら、喜びに変わるのです。
しかしながら、わたしは本当にきよい人に変えられるのか? 9~11 章において、パウロは例としてユダヤ人を挙げました。神の支配の中に、イスラエルの選びがあったのだ、と言います。イスラエルは、自らの力で生きよ2017.6 九州ケズィック・コンベンション委員会うとしたので、一旦は神に拒絶されました。
 しかし、11 章では、イスラエルがやがて回心することが述べられています。このイスラエルに対して、このような回心を与えて下さるなら、神は何の問題もなく、あなたをきよくして下さるのです。神は、あなたに、必ず成して下さる! 神はおできになる、いう信仰と励ましが、ここにあるのです。
 パウロは、9~11 章において、「それゆえに」という言葉を何度も語りながら、山頂に向かっていきます。11 章33~36 節、パウロは驚くべき神の恵みに圧倒されています。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
 『だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」。私たちもこの憐れみ、恵みに驚くべきです。パウロは、この恵みに応答すべきだと、冒頭で挙げた12 章1~2 節―モリヤの山で、語るのです。
 12 章は、11 章の恵みに対しての応答です。「わたしはあなたがたにお願いする」(口語訳:あなたがたに勧める)と記されています。これは言うなれば、イエスがあなたの前にひざまずき、あなたにお願いしているのです。それはあまりにも聖すぎる光景です! アブラハムに、イサクをささげよという神は、「あなたのからだを神にささげること」を求めておられるのです。しかし、命令されているのではなく、あなたにお願いをされているというのです! あなたのからだを、ささげてほしい。この神の願いに対して、あなたはどう応答しますか。あなたのからだを、ささげなければなりません!
 これは、決定的な行動です。このからだは、地上での家。生きるささげものとして、ささげなさい。この言葉は、神殿でのささげものと同じ語です。レビ記に記されている火祭、火をつけて燃やされる、ささげものです。イエスがご自分をささげられるとき、この語を用いられました。アブラハムがイサクをささげるときもそうです。一つ一つが、火に燃やされていく。健康も、活力も。手も足も。内にあるものも、全て焼かれる。燃えて、のぼって行く。死んではいません。生きているささげものです。あなたの毎日が神にささげられるのです。既にイエスの血潮によってきよめられた、きよいささげものです。信仰によるささげものです。それは、理にかなったささげもの。カルバリの神の憐れみの前に、当然のささげものではないでしょうか。このささげものを、神は礼拝と呼ばれるのです!
 そのからだを信仰によってささげるとき、奇跡が起こります。変革が起こる。進歩するとか、成長するとか、そういったものではありません。存在が「造り変えられる」のです。この世に閉じ込められてはいけません。この世に形づくられてはいけません。外側から、悪魔があなたをこの世の型にはめようとしています。しかし、私たちは内側から変えられていくのです。内側の力! 聖霊によって、新たにされるのです。
 神は、あなたの思いを求めておられます。キリストの思いが、あなたの内に宿りますように。キリストの思いによって、この世の思いから、あなたは自由にされるのです。しかし、あなたが、そのからだをささげることをしなければ、キリストの思いは宿らないのです。ケズィックで学んだ真理は、あなたがささげなければ効力を発揮しないのです。主よ、わたしは生けるささげものです! わたしのからだを神にささげる時、思いは変えられ、わたしの存在が神を証明するものとなり、神
の力を経験します。キリストが、私の内に生きておられる、と!この福音が、「私の福音」になる。その力は、神がくださるのです。このキリストを、福音を伝えることを通して、神は、この日本の教会を立てあげてくださいます。
 16 章25~26 節。「願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように。アァメン」。内側を変える、この真理をいただきたく願います。この真理は、私たちを信仰の従順に導くのです。私たちは、神の福音のために、選び分かたれました。この神の福音を理解した応答をしたいのです。神は、あなたのからだをささげることを求めておられる。あなたの思いを求めておられる。あなたのからだをささげた時、力が与えられるのです。神の思いと、あなたの思いとを一致させて下さるのです。すべての人が、福音宣教に召されています。このモリヤの山にのぼって、あなたがすべてをおささげできますように。神が、成してくださいます。

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